梅雨(つゆ)、五月雨(さみだれ)と言う。その終わり時分を、荒梅雨(あらづゆ)暴れ梅雨(あばれづゆ)とも言うそうだ。なるほど。
風流に夏前の湿気っぽいひと月ほどの季節を毎年の行事として短く感じているうちはまだ良くて、俳句や短歌のひとつもひねりたくなるのだろうが、大雨,集中豪雨,土砂災害,避難勧告となるともはや「季語」でもないだろう。北九州、山口県は昨年に続いての災害だそうで、地域の人の1年がかりの復興の様子と、対する今の状況を知らせられると胸が痛む。1年の苦労がそれこそ水の泡だ。長野県の僕の住んでいる地域は、生まれてこの方一度としてそのような災害に襲われたことはない。幸いと言う他はない。
木工を生業として生きてきて、<湿度がどうだ。含水率がどうだ。><木が太った-痩せた><ネックが反った-ねじれた・・・>は日常的にある。僕にとっては大変大事なことだ。たった数パーセントの水分が動いただけでそれまでの仕事がフイになる。例えば700mmほどの長さのネック材が0.5mm動いただけでそれはもうおシャカなのだ。焼き物師が未熟な出来の器を割るように、僕もねじれた棹を焼くのだ。1年間かけて乾燥してきても、一時の油断で台無しになる。もちろん人の命や生活と比べるべきものでもないのだけれど。
水はコントロールなどできないのだ・・・。うまく付き合ってゆくしかないのだ・・・。
「治水」そのものが永遠に続く作業に思える。まして100年に一度の災害が毎年のように起こる先ごろは、人間をあざ笑い、けんかを仕掛けるかのようにその度合いを増してくる自然に人はタチウチできない。どこで間違えたのか・・・。間違えてしまったのか!コントロールするどころか、自然を怒らせてしまったツケが年毎に度合いを増して襲ってくるようだ。
デモ僕は毎年、この部屋で湿気と戦いながら、まるでバカのように、力と知恵の及ぶ限り真っ直ぐなネックを作り続けてゆくしかないのデス。